'23/2/12発行「賢者オスッテBLアンソロ」に寄稿します

【ミロビス】キスの燃え殻

novelミロビス

キスの練習の続き

 ふとした瞬間、ことあるごとに思い出してしまう感触があまりにも生々しく、ビスコはその薄い下唇を小さく噛む。顔面に付着した細かな砂塵が口の中に入り込み、じゃりっと不快な感触が広がった。アクタガワは今日も二人を背に乗せ、のっしのっしと砂漠の中を突き進むが、ビスコは依然として上の空だ。
 昨晩、ミロと冗談だとは到底言い逃れできないレベルのキスをした。いや、ミロにとっては冗談の延長線上だったのかもしれないが、ビスコにとっては人生の一大事であり、最早それは事件であった。
 大人のキスを、教えてあげる。だけど覚えなくていいよ。
 そう言って侵入してきた熱に粘膜が焼かれ、爛れ落ちてしまうのではと思うほど。ビスコは息をするのを、忘れた。それは不慣れ(いや、正直に言えば初めてのキスの作法がわからなかった)じゃなかったとしても、そんな余裕などなかったと言い切れる。
 なんてものを教えてくれやがったんだと悪態をつこうにも、隣に座る相棒の粘膜が、まだ自分の中に存在しているのではないかと錯覚を覚えるほど、昨日のキスはビスコの思考を麻痺させるには十分な触れ合いであった。
 そんな上の空の状態で、揺れるアクタガワに乗っていて無事なはずがない。急ブレーキを掛けたアクタガワが前方へと身体を沈めると、鞍を掴む手も前方を見通す瞳も疎かになっていたビスコは、ふわりと身を投げ出されそうになる。
「ちょっと!? ビスコ!?」
「あっぶねーな、っと」
 別に宙へと身体を投げ出されたからといって、どうということはない。ひょいっと身を翻し、反転した視線の先にあったのはどうやら羽虫の大群で、どうやらそれを嫌がったアクタガワが方向転換を図ろうと一度止まり、進路を変更しようとしたからだとすぐにわかった。
「ありがとな、アクタガ、ワ……」
 逆さまに落ちながら、アクタガワを真正面に捉えたはずの視線の先に、ミロの本気で心配していると思しき視線と目が合う。実は今日、一度も視線を合わせずにここまで来た。自分も、ミロも、道中何も言葉を発することもなく、気付けばもう昼食時を逃していた。口を開けばやいのやいのと他愛のない小競り合いやら、時には真面目に今後について話し合うこともあった日常が、たったひとつの、いや、ふたつのキスで突然消えた。意識しすぎだ、と言われれば確かにその通りで、ただ、ミロも冗談のつもりだった割には無言を貫いた。
「ビスコ⁉」
 なんだよ、言われなくてわかってるよ、と心の中で悪態をつきながら、ビスコは逆さのまま砂漠へと不時着した。ぼふっ、そして、ごきっ。人体からおよそ鳴ってはいけない音がして、これは早々にこの問題を解決しないと後々まずいことになるぞと思いながら、鈍く病みはじめた首筋をそれ以上痛めつけないように頭を砂漠から引き抜いた。
「どうしたの、ビスコ、らしくないよ?」
 地上に降り立ったミロの声が近くで聞こえる。砂まみれの頭髪を振ろうにも、少しひねっただけで鈍痛がする首筋に仕方なく手で砂をぱらぱらと払うと、それを手伝うミロの手のひらと重なって、自分でも驚くほど過敏に反応してしまった。
 ぱんっ。反射的に弾いた手のひらは、割と小気味良い音を立ててミロのそれを跳ね除けてしまう。
「わりぃ、違うんだ、その」
「うん、僕の方こそごめんね」
 はらりはらりと砂が零れる頭髪を払い乱雑に前髪を掻き上げると、払われた手をぎゅっと胸の前で握りしめたミロがこちらを見下ろしていた。そんな顔を、させたかった訳じゃない。拒否でも無ければ、拒絶でも無いのに、ミロは酷く傷ついた顔をしていた。
「なんか勘違いしてるだろ、お前」
「そんなことは、ないよ」
「そんな顔、してるだろーが」
 ごめんね、と相棒が寂しげに放つ言葉の意味が、決して手が触れあったことでは無いということを、ビスコはすぐに理解した。ごめんね、じゃねえよ、とビスコは心の中で舌打ちをする。なんで、自分だけ悪いみたいな言い方をするんだ。
「話がある。が、こんな灼熱地獄のど真ん中でする話でもねぇ。さっさと走り抜けよう。今日の昼飯は、抜きだ」
「……うん」
 しっかりしろ、という意味を込め、ミロの腕をぱんと叩く。それは自分自身の確認でもあった。大丈夫、まだこうやって触れられる。
 アクタガワの背に戻りながら、未だに残る掌の感触を不思議に思った。相棒の、まだ肉付きのそこまで良くない腕に覚えがある。ミロも隣に着座して、方向転換を促したアクタガワがまた砂地を走り出した。
 砂がその大きな目に入らぬよう、フードを目深まぶかに被ったミロを横から見遣る。あの街で重労働と名のつく仕事をしてこなかったであろう華奢な肩は、マントの縁に小高い山を作り、その山を起点にして布地がバサバサとはためいている。
 ああなんだ、そういうことか、とビスコはすぐにひとつの答えにたどり着いた。それと同時に、そんな些細なことまで記憶している己の身体に唖然としたりもした。
 昨日、必死な思いで縋り付いた相棒の腕が、服越しにでもその熱を感じ取った瞬間、とてつもなく安堵をもたらす物であったと。
 ろくに水分を取ることも出来ず、カラカラに乾いているはずの舌先にじわりと唾液が溜まる。それをビスコは人知れず、小さく喉仏を上下させコクリと飲み込んだ。何に興奮してんだ、馬鹿じゃねえのか、と自分に向かって悪態をつくも、脳内に浮かぶのは腕の感触やら粘膜を蹂躙される感触で、ビスコは諸手を挙げて降参した。
 あんなの、思い出すなと言う方が無理に決まっている。
 そしてふと疑問に思った。

 ミロは、昨日のキスを思い出しただろうか。

 ◇  ◇  ◇

 砂が熱され、焦げたような匂いが鼻の奥にこびりついて離れない。昨晩過ごしたような洞穴で一夜を過ごすことが出来るのはこの旅ではかなり贅沢で、大概は交互に眠りながら寒い砂漠の夜を震えながら過ごしたり、アクタガワを休ませるために少しでも身を隠せる場所を探して野宿することが多かった。
 今朝、何の打ち合わせも無くアクタガワの背に揺られ突き進んだ先には、どうやらビスコが目的とする場所があるらしい。昼飯抜きは当たり前の日常で、そんなことよりも「話がある」と言ったビスコの声ばかりが脳内を埋め尽くす。
 視線が合わないなと思った。いや、合わせようとしなかったのは自分も一緒だ。どんな顔をして、ビスコを見たら良いのかわからない。
 確認作業だったはずのキスひとつで、相棒を見る目が変わってしまった。
 不器用で拙い。簡単に言えば下手くそ。なのにあんなに心地の良いキスを、ミロは今までしたことが無かった。こんなもの、どうして忘れられよう、そんなの無理でしょ、と心地よく揺られる道中で、何度も肯定と否定を繰り返す。
 もう何時間も前に弾かれた手の甲と、軽く叩かれた腕の一部分だけが、未だにジンジンと火照る錯覚を覚えた。
 合わぬ視線に、弾かれた手。拒否ではないと、そう願いたい。

 もう一度キスしたいと言ったら、君は何と返すのだろう。

 ◇  ◇  ◇

 日が沈みかけた砂漠は焼けるようなオレンジ色に染められて、ひた走るアクタガワと砂漠がまるで同化したような景色だった。大きな砂丘を越えたその先に、崖のように切り立った絶壁の麓にあったのは、久しぶりに見た緑。色だ、自然の色があると妙な興奮を覚える。
「ミロ、あったぞ、オアシスだ」
「えっ……、あ、ああ! 本当だ! やったねビスコ、これで水が飲める」
 どことなくミロの反応にぎこちなさを覚えたビスコは、それでもそのことに関して追求することは無かった。今はまず、水だ。そして蓄えていた食材を食べられる状態にして、飢えた身体に活力を付ける。水があれば、自ずと獣たちも寄ってくるだろう。補給にはうってつけだ。そしてもうひとつ、今の二人には一番大事なことがある。
「夜になる前に、火を焚こう。そうすれば獣も寄りつかない」
「そうだね」
「お前だって、話したいことがあるだろう、ミロ」
「ああ……、うん。そう、だね」
 明らかに緊張と不安が入り交じり、人形の様に肯定を繰り返すミロにビスコはわからないでいた。

 水も緑もあるが、雨風はしのげないオアシスで夜を過ごすには熱がいる。
 一晩、充分に過ごす為の薪をくべると、ぱちぱちと水蒸気が破裂する音が広大な砂漠の中で静かに響いた。結局、話があるという事実だけが置き去りになって、昨晩と同じように食事も身支度も済ませてしまった。
 なんと話を切り出したら良いのかわからない。そもそもこういう交渉が苦手なビスコは、思い浮かんでは違うと何度も消している二つのワードがある。
(お前は昨日のキスを思い出したか)
(俺は昨日のキスが忘れられない)
 だけどそれを口に出したことで、何かが変化し、何かが終わってしまうのでは無いかという予感が、少し怖かった。ミロは確認すると言った。だからミロはあんなものたいしたもでは無いと思っているかもしれない。
「なあ、ミロは」
「ねえ、ビスコは」
 沈黙の後、口に出したのは二人同時だった。
「んだよ、仲良しかよ」
「本当に。笑っちゃうね」
 くすくすと、さほど面白かったわけでも無いのに自然と笑みがこぼれた。ああなんだ、普通に話せるじゃねえかと安堵して、隣に座る相棒を見れば膝を抱えるようにして小さく縮こまり、同じくこちらを見つめていた。
「ねえ、ビスコ。……嫌だった?」
 何がだよ、と無粋な返事を飲み込んだ。わかっている。きょう一日、はっきり言ってそのことしか考えていない。
「嫌じゃ無かったから、動揺してる」
「僕も」
「なんでだよ、お前が教えるって言ってしたんじゃねぇかよ」
「うん、僕も最初そう思ってたんだけどね」
 ミロの空色の瞳に、火の揺らぎが映り込んでいた。たき火の熱を受ける顔面は熱く、逆に背中は寒々としていて、それはミロも同じだろう。熱を分け合う悦びを昨日初めて知ってしまった身体は、隣の相棒とそれをしたいと渇望している。
「違うんだ、何かが違う。それが何だと問われても僕はその答えをまだ持てないでいる」
「難しいこと言うんじゃねえ、明瞭簡潔に言え」
 ふわりと開いたミロの口は一度言い淀み、しかし意を決したように言葉に変えた。
「ビスコと、キスしたい。確認とか教えるとかじゃ無くて、普通に、ちゃんとしたい」
 その言葉を聞いた途端、ざわざわと背を逆撫でられたように粟立った。欲しかった言葉は、単純にそれだった。返事を待つミロが、真摯にこちらを見つめている。
「しろよ。俺も、したい」
 伸ばした指先を、今日どうしても触れたかったミロの唇をなぞる。びっくりしたミロの目が特段と見開かれ、そして花のように微笑んだ。
「あと下手くそだから、ちゃんと教えろ」
「大丈夫、何回もすれば出来るようになるよ」

 何回も、と言ったその言葉の意味を、この後思い知ることになるとは思いもよらなかった。