'23/2/12発行「賢者オスッテBLアンソロ」に寄稿します

【ミロビス】キスの練習

novelミロビス

 それは何の変哲もない濁りきった空の下、そよぐと言うには若干荒々しい風が洞穴の外でとぐろを巻く夕暮れであった。
「あ? なんだって?」
「だーかーらー、ビスコはちゃんと大人のキスできるのかって聞いてんの」
 聞き間違いだと思いたかった文言をもう一度、今度はずいと身を乗り出し、その顔面に大きく付いている瞳を零れ落ちそうなほど見開いて、言い逃れができぬほど大きな声ではきはきとミロが言う。
 二人の手元には、仕留めた獲物の剥いだ皮の上に綺麗に成形された肉塊と、食用に生やしたキノコ。火に掛けられた鍋はクツクツと水が沸騰してきた頃合いで、さあ、ようやく飯にありつけるぞと思った時に変な問いかけをされたから、ビスコは腹が空きすぎて幻聴を聴いたのかと思った。
 横に並び火を見守っていたはずのミロの身体が、急に接近して自分の返事を待っている。答えてやる筋合いなんかはない。
「あぁん? 何でそんなこと答えにゃなんねーんだよ」
 大人のキスだぁ? そんなん出来るに決まってんだろ、と心の中で悪態をつく。まあ、どうやってやるのかとか、実際にしたことがあるのかと問われれば、その……、したことは、ない。だがそれを伝えてやる義理もない。なんだってそんなこと、わざわざ告白せねばならんのだ。
 無意識に反らした視線、ビスコが鍋へと無造作に投げ込んだ肉は熱湯を跳ね上げ、ぽちゃんと大きな音を立てる。もちろん反動で跳ねた湯は自分へ向かって反旗を翻し、その熱さから咄嗟に腕をひっこめた。
「あっつ」
「もう! いつも気を付けてって言ってるのに、聞いてるのビスコ!」
 貸して、と言って残りの肉を湯の近くで丁寧に滑り込ませたミロが、さじでぐるりと湯と肉をかき混ぜると、コンコン、と鍋のふちで湯を切り、皿替わりの大きな葉の上にそっと乗せた。有無を言わさず、先ほど引っ込めたビスコの腕をむんずと掴み、穴が開くほど何度もひっくり返して目視による確認作業が終わると、「で、どうなの?」と、今度はビスコの太ももの上に手のひらを沈められれば、もう逃げられやしない。
「火傷なんかしてねーよ、そんくらい、どーってことな」
「その話じゃなくて。大人のキス、出来るかって聞いてんだけど」
 数分前の話題に逆戻りしてしまい、出来るとも出来ないとも答えたくないビスコは「あー……」と曖昧に相槌を打ちながら目線をそらすが、ミロはそれを許さなかった。
「困るでしょ、パウーとキスする時に、大人のキスできなかったら」
「はぁ? お前、何言ってんだ?」
「ちゃんとできるかどうか、僕が確認する」
 ミロの大きな瞳がどんどん近くなる。暗い洞穴の中、鍋を熱する火の光だけではもう顔の輪郭すら曖昧で、焦点の合わなくなった瞳は、なぜかわからないが、そう、何故そういうことになってしまったのか全く釈然としないが、すっと自然に瞼を落とした。
(これじゃあまるで、キスしてほしいみたいじゃねぇか)
 ハッと気づいたビスコが否定の言葉を紡ごうとしたその前に、顎先からそっと撫でてきたミロの指先が上向くように軽い力を入れると、それに従うのが心地良いと勝手に判断してしまった身体はビスコの意識を無視し始めた。
 ビスコの膝上に乗り上げたミロが、少し上から唇を重ねてくる。乾いた砂漠を永遠と進む道のりで、ミロもビスコも唇は常に荒れていた、はずなのに、どうしてかその感触はとても柔らかく、それでもミロが角度を変えようとずらした摩擦で微かにざらついた。
 相棒と、キスをしている。しかもそれは天からの与えられる恵みのような、慈愛に満ちたキスだった。時折離れては形を憶えるかのように触れ合う部分を変えられると、濡れた音が洞穴の狭い壁に反響する。薄く口を開けば、中へと入りこんでしまいそうなほど粘膜が密着する。はぁ、と吐いた息が熱いのは自分だったか、それともミロの方だったか。そんなことすら今はどうでもいいかと思うほど、思考がぼんやりと焼け落ちていく。
 そうか、これが大人の……、って、なんでこんな、身体をゆだねるようなことを俺がしてるんだったっけ?
 気づけば自分の手はミロの腕にすがるように掴んでいて、顎先を支えるようにしていたミロの指先はすでにうなじへと到達していた。
「もう、いい、だ、ろ」
 思った以上に弱々しくミロの胸を押した自分の腕の力にやや混乱しつつも、荒々しく唇を手の甲で拭う。ミロの瞼が、すぅっと見開いた。そのまつげの一本一本まで、なんだか愛おしく思ってしまう自分に動悸が止まらない。
「確認しておいて、よかった」
 ふわりと微笑む、満足そうな顔。どちらのともつかない唾液でまみれたビスコの下唇を、すうっとなぞるミロの親指。相棒の唇も、わずかな光量ででもわかるほど、艶やかに濡れていた。
「できるって、わかっただろーがよ」
「ああ、ビスコは今のが大人のキスだと思ってるんだね」
 ふぅん、へぇぇ、と言いながら、ミロが匙を取る。鍋を静かに掻き混ぜた後、キノコもまた丁寧に湯に沈めると、「もう出来あがっちゃうから、食べ終わった後にしよっか」と目線もくれずに明るく言い放った。
「食べ終わったら、あとは寝るだけだろーが」
「あんな子どものキスを大人のキスだなんて勘違いしてるビスコには、ちゃんと僕が本物のキスを教えてあげないと」
「なっ!?」

 夕飯の味は、二人ともよく覚えていなかった。実際のところ、ミロもビスコも調味料を加えるのを忘れていてスープは無味に等しかったが、『食後に本物のキスをする』という一大イベントに気を取られすぎていて、そんなことも気が付かないでいた。
 無言で椀によそい、注がれた食材と湯に等しいスープを黙々と食べる二人の耳が、ほのかに赤く染まっていることを、当人たちは知る由もない。

 ◇  ◇  ◇

 ちょっとした、確認作業のつもりだった。
 この険しい旅路は、ビスコにとっては決して新たな冒険ではない。ジャビと共に、長く辛い道を歩いて、走って、アクタガワの背に乗って。幼い頃からそんな生活を過ごしてきたビスコに、女の影も、十代特有の性的な欲求も、全くと言ってもいいほど感じ取れなかったことに、ミロは疑念を抱いた。
 ビスコは、キスをしたことがあるのだろうか、と。まさか、いやそんな、流石にその年でキスくらいは経験があるだろうから『キスをしたことがあるか』と聞くのは失礼な気がした。だからミロは『大人のキス』をしたことがあるかと、そう問うてみることにしたのである。
 ビスコは、肯定も否定もしなかった。それはつまり『したことがない』ことを指している、とミロは単純に解釈し、確認をする、という口実で勢いに任せてキスを仕掛けた。ビスコは嫌なら自分を跳ね除けるくらいどうってことないはずなのに、彼はそれを、しなかった。いやむしろ、どう考えても快く受け入れていた。
 相棒の唇は、いつも汚い言葉を吐くとは思えぬ程温かく、そしてとてつもなく不器用だった。それはキスというよりも口付けと言ってもいいような清らかさで、ミロを誘うことも、嫌だと顔をそむけることもしなかった。
 相棒と、ビスコとキスをしている。
(もしかしたら、これはビスコの初めてのキスなのではないか?)
(それを奪ったのは、もしかしなくても自分なのではないか?)
と憶測が脳内に及んだ瞬間、ミロの思考は沸騰した。そして必死に考えを巡らせた結果、(優しくしてやらないと)とおかしな方向にねじ曲がった。
 まるで初恋が叶ったかのような、そんな優しいキスを落とす。ビスコの唇も、身体も、まるで何かで縫い留められてしまったかのようにカチコチで、それをほぐすかのように唇を滑らせていく。乾いたままだった交わりも、いつしか音を立てるほどまで濡れていた。ちゅ、ちゅ、と明らかに愛し合う者たちにしか発せられない響きが漏れて、狭い洞穴に響き渡ると、もっと、もっと深くほしいと思う身体がビスコの頭を引き寄せていく。
 とくん、とくん、と響く自分の心音が五月蠅い。今まで付き合ったどの女の子達とのキスよりも、明らかに興奮している自分に気が付いて若干混乱する。あれ、キスってこんなに気持ちがいいものだっただろうか。ただ、唇と唇を重ねているだけなのに。別に恋人でもないし、なんなら男同士なのに。
 おかしい。何かがおかしい。
「もう、いい、だ、ろ」
 ビスコの腕が、弱々しく自分の胸を押す。ああ、終わってしまった、と思うと同時に、もっと深く交わったらどれほどまでに気持ちが良くなってしまうだろうと、期待にわずかな不安が入り混じる。
 戻れなくなりそう……どこに戻るのかは、よくわからないけれど。

 ◇  ◇  ◇

 二人とも、始終無言であった。いつもなら、明日の旅程を確認するはずの作業すら、今日はどちらからとも声をかけることなく鍋も椀も綺麗に片づけられ、もうあとは寝るだけとなった。
 岩肌の洞穴の壁に寄りかかるようにして、二人それぞれ毛布に包まる。普段は、肩を互いに預けて眠る体勢を取るのに、今宵二人の間には、ちょうど小鍋一つ分くらいの隙間があった。
(なんで、指先が冷たくなっているんだろう)
 毛布の中で自分の指先を擦ってもなかなか温まらないそれが指し示すのは『緊張』であることを、医者であるミロは十分すぎるほどに熟知している。
 先ほど二人の交わりで生み出された音が鳴り響いていた洞穴は、砂漠を抜けるうねる風が入り込み、ひゅうひゅう、と悲しげな音を立てていた。ミロは、ちらり、とビスコを包んでいる毛布を見遣る。おそらく胡坐をかいているであろう足元の毛布の切れ端がはためいていた。
 唐突に「もう寝るぞ」とビスコが小さく告げる。それはつまり、今日はもうキスはしないんだな、というミロに対する確認作業にも聞こえた。ミロは言葉の主の顔を見ようとしたが、そこにあったのは視線をそらしたビスコの横顔で、すでに消えかかっている火の明かりですらわかるほど、耳が真っ赤になっていた。
 え、可愛い。何それ、可愛い。
「食事が終わったら、教えてあげるって言ったよね、僕」
「べっ、別に教えてもらう必要ねーだろっ」
「あるんだよ」
 ……僕には。ビスコとキスをする理由が、僕にはある。
「ねえ、こっち向いて、ビスコ」
 冷たかったはずの指先はすでにカッカと火照っていて、毛布の中からそっと伸ばし表情の見えないその頬に触れると、熱さに驚いたのかビスコの肩がびくりと揺れる。ビスコの頬は、指先が心地よさを感じるほど冷たくなっていた。緊張してるのかな、じゃあ僕が温めてやらないと。半分しか見えない右目の刺青を親指でなぞりそのまま後ろの方へと手を滑らせて、垂れる赤髪をそろりと耳にかけてやると、くすぐったいのか小さく肩を竦めた。
 ビスコは何を言うでもなくされるがままで、言い方は間違っているかもしれないがどこぞの生娘のような反応をするものだから、ああこれは、されるのを待っているんだなと、そうミロはいいように解釈をした。膝立ちになり、ビスコの真正面からその体を捉える。ばさり、と自分の肩から毛布が落ちた。
 急に動きを見せたミロに、眼下のビスコはぽかんと見上げている。両手でその頬を覆ったがビスコの両手は毛布の中にしまわれたままで、つまり、してもいいということに他ならなかった。
「教えるけど、覚えなくていいよ」
「あぁ? どういう意」
 言葉だけは威勢のいいその口を塞いでやる。容易に侵入を許してしまったその口腔内に最初から舌を忍ばせ噛まれないことを数秒確認すると、臆病に引っ込んでしまった舌先を探す。それは随分と奥まった場所にあった。縮こまったビスコの舌先に、ちょん、とつついて挨拶をする。怖くないよ、一緒に遊ぼう、となだめるように優しく突いてやれば、幾分か緊張がほぐれ柔らかくなった気がした。少し、長めに絡ませてやると、おずおずとその動きに合わせて舌先が不器用に動いた。
 ねえビスコ、大人のキスは気持ちがいいでしょう?
 でも僕だって、こんなに気持ちがいいことだとは知らなかった。相棒の粘膜は、とにかく熱くて甘い。他人の唾液を甘いだなんて表現するのは都市伝説かまやかしか、などと嘲笑っていたけれど、嘘でもなんでもなくビスコの体液は甘く感じられた。
「んっ……、ん、ん!」
 鼻から抜けるビスコの声に、何か様子がおかしいことを感じ取り、もしかしてと思って口を離してやれば、開口一番「くっ、苦しいんだよ!」と言ってのけた。
 予想を裏切らない初心うぶな反応に、ミロは思わず笑ってしまう。馬鹿にしてるんじゃない、愛おしくてたまらないからだ。だけどそれを愛おしいと言ってしまうには、まだ自分の気持ちに整理が付かない。
「馬鹿だなあ、鼻で息すんだよ」
「またそうやって、頭の悪いこと馬鹿にすんだろお前は」
「してないよ、ほら、今度はビスコから、して?」
 胡坐をかいたビスコの前に座り、視線を真っすぐに合わせ見つめてやる。身長差でビスコの目線の方が幾分か高く、動く気配のないビスコに、しないの? と首を小さく傾げて見せた。
 するとちょうど少し大きな空っ風が洞穴に入り込み、空前の灯であった薪の火がふっと消えた。目を閉じているか、閉じていないのか。見られているのかいないのか。それすら曖昧な暗闇の中で微かに衣擦れの音がすると、頬に何かが触れた。それはすぐにビスコの指先だとわかる。弓だこで隆起した、自分にも最近出来始めたふくよかな指の節。指の腹はざらついて、ミロの頬に目に見えぬ傷を作る。
 ミロは、少しでもその姿を見ようとして暗闇の中、目をしかと見開いた。わずかに動く人の影がゆっくりと近づいて、体温を間近に感じ取れた瞬間、ほんの触れる程度に唇が押し当てられて、すぐにそれは引いていった。
「……馬鹿言ってないで、もう寝るぞ」
 ガサゴソと、おそらく毛布をかぶりなおしたビスコが離れていく。
「……うん、おやすみ」

 その晩は二人ともなかなか寝付けず、起きた頃には珍しく陽が高くなっていた。
 朝の支度を別々に済ませた二人が出立の準備を背合わせにしながら、そっと自分の唇に手を当てて、昨晩を思い出していた。
 その感情に、名前が付くのはまだ遠い。

続き→キスの燃え殻